この大橋を超えて津波が来た。
手前のコンクリートの建物が横倒しのまま。
その後、まだ積み上げられただけの瓦礫に遭遇。
南相馬市の原町、火力発電所のあったところ。
山のかなり上まで津波で白くえぐられている。
今、木材、金属、コンクリート、津波の退席泥などにより分けている。
この大橋を超えて津波が来た。
手前のコンクリートの建物が横倒しのまま。
その後、まだ積み上げられただけの瓦礫に遭遇。
南相馬市の原町、火力発電所のあったところ。
山のかなり上まで津波で白くえぐられている。
今、木材、金属、コンクリート、津波の退席泥などにより分けている。
津波のえぐりとった痕、
瓦礫の集積場、
津波でなんにもなくなり、水路も破壊され塩漬けになった田・畑。
その畦に翻る鯉のぼり。
写真もたくさん撮ったけど、表せない圧倒的な被害。
次第に声を失いました。
そして今夜南相馬に住む日本共産党相馬地区の委員長夫妻と、
個人的に交流し、生の声を聞きました。
娘さんが原発から10キロのところから子ども連れて逃れてきて同居中。
そして地区委員長てして、共産党はどう考えているんだと迫られる日々。
瓦礫の仮置き場の決断のことなど、
「ひとつひとつその場で考え決断を迫られる、そんな中で毎日いきているんです。」と、
重みのある言葉を聞きました。
明日、県庁での聞き取りあり、名取の瓦礫も見せてもらいます。
津波田の畦翻る鯉のぼり よし枝
きのうは福住衆院2区予定候補と、私のいきつけの洋服屋さんに。
消費税の引き上げについてご意見を聞かせてもらい、
日本共産党の提言をお話するためにお邪魔しました。
楽しそうにお茶飲み話しをしておられたお客さんと従業員さんも含め、
10人を超える人が、ちっちゃなテーブル囲みました。
「赤字でも消費税は払わないけん。これ以上あがったらやっていけません。」とご主人。
「そらもう早よ死ねということだわ。年金も減るのに。」と隣の椅子のお客さん。
私よりはまあちょっと年配の女性。いまお独り暮らしだそうです。
「所得が1億円を超えると税金の負担率は下がる」とパネルのグラフを福住候補が示すと、
(1億円のところに見事にピークの来る山形の線グラフです。)
みなさん、「おお!」だから「社員より社長さんの方が税の負担率が低い」と福住さんが言えば、
「ほんとだわ。もってる人にもっと払って貰わないけんわ。」
その後も、介護から年金からあっちこっちに話しは飛び、
あっという間に4,50分でした。
日本のマスコミは共産党のことを書かないという話から、
日曜版をおすすめすると、ひとりが読者になって下さいました。
福住さんと、取材に入っていた赤旗記者さんが帰っていき、
後に残った私は、洋服を物色しながら、店員さんと、
「瓦礫処理」の話。「国に科学的で安全な処理について責任を持って貰わんといけん。」
「そげだ、そげだわ。」と話しこんで、洋服もやっぱり買いこんで帰りました。
しつこい風邪につかまって、
起き上がっては、原稿を書き、また寝、
起き上がっては議会へ出かけ、帰ってはまた寝、という終盤で、
終わったという開放感はありません。
24年度の予算も、事業も問題おおありで、
「米子市民基本条例」「保育所民営化事業」「介護保険特別会計」(保険料引き上げ)、
市民の暮らしどうしてくれるの。
みなさん、力及ばず本当にごめんなさいという感じ。
市長のように、にこにこ満面の笑みで帰って行く訳にはいきませんでした。
瓦礫処理、産廃処分場、原発などなど、これから今度は議会の外で、
取り組んでいくことがあります。
でも、今夜はおやすみなさい。★写真は昨年の今ごろのわが家の連翹ー今年はまだ蕾堅い。
日本共産党米子市議会議員団を代表する私ひとりでした。
他の会派、批判はするものの結局予算はすんなり通す訳です。
その後11時からの「瓦礫処理」についての全協。
長い説明のあとに質問の時間は短く、疑問は増えるばかり。
市長は焼却灰を国有林にいれるという政府の発表で受け入れを決めた、といいましたが、
環境省は「スピードアップで処理するためにも地元で。米子が事情があるなら県内の処理場で」という答。
風評被害などにも角副市長は国の全面賠償をもとめましたが、環境省は「責任をもって対応する」というだけです。
国とよく協議することもなく、議員や市民の意見を聞くこともなく、
受け入れを表明するなど、市長の態度は全くなってないと感じました。
また放射線量についても、再利用せず埋めるのだからと、
焼却後が8000ベクレルを超えない値(焼却する前は焼却炉の型式で1キロあたり240ベクレルまたは480ベクレル)という説明でしたが、
これはやはり「普通の廃棄物」とはいえないのではないか。
それを国が安全に管理する処理場にいれるというのでなく、県内の一般廃棄物処理場へ、というのは、
やはりとんでもないことだと思います。
安易な国のやり方には抗議し、簡単に受け入れは出来ないと改めて思いました。
★写真は岩永なおゆき書記長のblogから頂いてきました。
波紋が広がっています。
この問題は27日3月議会の最終日に全員協議会が開かれるようです。
進まない瓦礫処理は地元だけでは無理な話で、
政府が責任をもって処理すべきことです。
その場合、福島原発に近く放射線量が高いものについては、
移動で影響を広げることなく、限られた立ち入り禁止地域での処理とすべきだろうと思います。
周辺の地域で、放射線量が低いもの、「通常の範囲内」であれば、
処理能力のある自治体が引き受けることは、これもあるべきと思います。
しかし現野田政権の放射能についての対処の仕方は、
全く信用のおけるものではなく、そこに不安がぬぐえません。
広域処理する対象の瓦礫の放射線量(1キログラム当たりセシウム8000ベクレルとう政府に基準値も作業する人には安全でないと言います。)
、焼却灰の処理(固形化)、焼却により放射能が凝縮されること、
焼却灰を入れるという国有林とはどこか、またどのような処分場とするのか、
明確にされねばならないことが、いくつもあります。
またクリーンセンター周辺の住民はもとより、全市民にも丁寧な説明がされるべきです。
この問題、いつもの国任せの態度ではなく、
住民をまもる首長として、厳然とした態度で当たって貰わねばなりません。
★写真はわが家の花たち。今年は皆遅い。中でも木蓮。いつもならもう真っ白な花が盛りです。
「暮しの手帳」という年4回の季刊誌を楽しみにしていました。
美しくて温かみのある表紙、
そしてタイトルが親しみのある手書き文字の、
カットも鉛筆でちょこっと描いたよ、みたいな雑誌。
そして提案されている暮らし方の豊かさ。
その表紙が、タイトル文字が、カットが、
花森安治という大変風変わりな人の手になるものだと知ったのは随分後になってから。
(伸ばした髪をカールして、手作りのシャツ着て、割烹着つけたりする男の人、その頃いなかった。)
若い頃は料理も服装も随分影響を受けました。
その花森安治展がいま島根県立美術館で開催中。
昨日環境会議の帰りは寄る余裕がなく(慌しいのはいやで)、
今日の午後改めて行ってきました。
花森安治は戦争中に大政翼賛会の仕事をしており、
「欲しがりません勝つまでは」などの標語をつくったと言われています。
標語づくりには関わっていたのでしょうが、「欲しがり・・・」は実は小学生のつくったものとか、
いろんな話しが伝わっており、真実はどうなのか不明です。
本人はこのことに関しては一切語らなかったといいます。
戦争を進める仕事をしたことに何の言い訳も出来ないと考えたのでしょうか。
彼は「一銭五厘の旗」という本を書いて、一銭五厘の葉書で戦争に駆り出された臣民のこと、
再び戦争に駆り出されてはならないという思いを込めています。
戦後国民が自らの暮らしの主人公となり、美しい暮らし方をしたいという願いがこの雑誌にはあるように思います。
見覚えのある表紙の原画の数々。
そして編集室の様子を写したビデオや、
商品テストの写真(「○○を買いたいけど、「暮しの手帳」が商品テストしてからにするわ」などという会話がその当時はあった)
火事の実験ビデオなど、楽しみました。
花森安治は関東の人ですが、旧制松高(島根大学の前身)の出身です。