4月30日
昨日に続いて晩田山に行きました。
今日は、高島忠平先生の記念講演「妻木晩田と吉野ヶ里」を聴くためです。先生は、1931年生まれで、妻木晩田遺跡の活用と吉野ヶ里遺跡の活用基本計画にも佐原真先生と関わっておられるそうです。

先生は、吉野ヶ里遺跡は、魏志の倭人伝にあるような、環壕・半円形の壕の張り出しと建物・高殿等の跡、鉄製の武器などが、まとまって発見された。吉野ヶ里を邪馬台国とは、一概に決められない。吉野ヶ里遺跡の周りには、弥生時代の遺跡が数多く分布している。吉野ヶ里の大規模環濠集落跡は、「弥生都市」ともいうべきと考えていると述べられました。
妻木晩田遺跡は、平地にあった集落が、弥生時代中期後半に妻木晩田丘陵の一角に立地するようになり、それが次第に丘陵全体に広がり、有力層の墓地造営も行われ、集落となっていった過程を示す継続的集落跡である。古墳時代にも継続し、そうした集落を形成した一族の盛衰をも見て取れる遺跡でもあると、話されました。

銅矛(どうほこ)について、弥生時代前期後半、中期初めに墳墓の副葬品として北部九州で見られた。中期後半に祭器化する。複数一括して地中に埋納された状況で出土する。海中から発見されたものもあり航海や漁労に関して、海神が依り付くまたは犠牲として用いられた祭器と考えられる。

そういえば、島根県の荒神谷の数の多さに驚きましたが、祭器として、そうかもしれない、とうなずけました。
佐賀県、有明海の周辺にも、鳥取県琴浦町の久蔵峰からも出土しているそうです。遠く離れた地域なのに、どうしてこんなに似たものを作ったのか映像で見て不思議でしたが、海流にのっての交流が行われていたと説明され、納得しました。

稲作は、朝鮮半島経由と南方から日本に伝わったと考えられる。稲の遺伝子を調べると、南方の焼畑農法の遺伝子を持っているので、2つの遺伝子が強い稲を作ることに成功したのではないか、と先生。当時の海上交易の危険を思わずにはいられません。

九州の宇木汲田遺跡で発掘されたヒスイは、糸魚川から原石を掘り、山陰で加工されたのではないか。と玉造を思い浮かべました。快い話で、二時間があっという間でした。

遺跡の活用については、①学術的価値を知ること、②謎に迫ろうという市民の関心、③発掘を体感しながら新たな見方をすることが大事と話されました。

DSCN2718 ヒスイ細工

DSCN2721 山ウド