2010年4月
月間アーカイブ
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ご近所で牡丹が咲いていました。私は、紫の牡丹が好きです。丁度、干支で一周大きな姉が里帰りした折、大根島で買ってくれた思い出の色だからです。姉には言えませんが消えてなくなりました。東京で夫の看病をしている姉はこのことをに知りません。ひょっとするともう忘れているかもしれません。不思議に私はこの色の牡丹を見ると思い出します。
ミー子が散歩をしていると、白いチョウチョウが花の周りを飛んでいました。ミー子はじゃれたように身軽く飛び上がって掴むしぐさを見せましたが、真剣さは感じられません。飽食だからなのでしょうか。明日からは敏捷になるよう餌を減らした方がミー子のためではないでしょうか。ご意見をお寄せ下さい。
農家の話を聞きました。近所の人が体調を崩され田んぼを作ってくれないかと頼まれた。昔からの付き合いで断るわけにはいかない。今日は、田植えの準備に、苗300箱に水を掛け、温室への出し入れをした。1町3反の農作業。朝は4時、5時から出かけている。農協に苗を作ってもらったり、植えてもらったり、刈り取ってもらったら、肥料代もない。苗を作り、機械は県外の実家と共同で使用している。米を売ったりしてなんとか続けている。私の身体も何時まで続くやらと、しみじみ伝わる農家の主婦の言葉です。
普天間基地ではありませんが農業も限界点に達しています。「国政を変えないとどうにもなりません」、今度の選挙で日本共産党の比例を大きく伸ばして下さいとお願いして別れました。
4月24日 八重桜の満開の下で街宣をしました。テーマは平和について、「皆さんはどう思っておられますか」、と問いかけながら、4月21日に、日本共産党志位和夫委員長が政党として初めて、ジョン・ルース駐日米国大使と普天間基地問題や核問題、外交問題などについて共産党の考えを伝え意見を交換したことを話しました。
米子空港は民間の空港と自衛隊の美保飛行場の共用となっていますが、07年11月の官報に米軍基地にされていたこと。このことを米子市も境港市も知りませんでした。地元住民に一切周知しない間に米軍基地にされていたのです。私たちは平和な空港であってこそ歓迎すべきであり、米軍基地化とは共存しえないと考えていますと訴えました。
議場で記念写真を撮りました。4年間の質問回数は16回、質問数はざっと60項目でした。国民健康保険については滞納者への短期証や資格証の発行など切実な声を届けました。介護保険では、家族介護から社会全体でというふれこみで導入されながら、年々、介護保険が改悪され必要なサービスも認定を下げられたために利用できなかったり、負担できないなどの問題を取り上げながら、市独自の軽減策を求めてきました。
米子市は財政がひっ迫しているといい財政健全化プランを立て職員数の削減や民間委託を進めてきました。今、公立保育所の民営化を推進しようとしています。米子の明日を担う子供たちへの投資は無駄使いとは思いません。大いにつぎ込むべきところではないでしょうか。いずれ子供たちが大人になったころその成果を実感できることでしょう。今度、再選されたら、民営化の方針を転換させて、何処よりも実績を積んでいる公立保育所の存続に力を入れたいと思います。
4月20日 午後は雨もしとしと降りとなりましたので、早速、少し離れた町内を挨拶に回りました。意気込みは良いのですが、お家におられる人の少ないのに驚きました。一軒、一軒手紙を書いてリーフをポストに入れる音の何と空しいことでしょう。
漁の網を繕っておられるお年寄りに話を聞きました。「合併した町も、漁協もいけませんわ。あんたを応援しますけんね」といいながら若い頃には硬くてごつごつしていたであろう手で握手をしていただきました。合併を良くなることと信じ込ませ誘導した政治に腹が立ちます。「もう、海には出ませんけん」といいながら、でも、せっせと網の手入れを続けておられました。昔の豊饒な日本海で漁をなさっていたに違いありません。
初めてのお宅なのに、快く手を差し出してくださった方、今度お会いする日が来るように頑張らねばと思います。
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4月18日 晴天に恵まれ、米子市議選の事務所開きをしました。若い候補者に負けじと広い敷地に、真新しいプレハブの事務所を設置しました。流し台やトイレもあります。
岩永尚之参議院議員候補、錦織陽子県議会議員、大森正治大山町議会議員の挨拶を受けました。私と小学校、中学校、高等学校を共に過ごした幼馴染が事務所開きを祝って挨拶をしてくれました。
ご近所のお年寄りの方は、30分も前から、不自由な歩行にもかかわらず待って下さったり、駅南や箕蚊屋方面、皆生からも大勢駆けつけたくださいました。広いはずの駐車場が満員でご近所にお願いをして回りました。
私は、高校を卒業した当時、就職難でプロパンガスを扱っていた「kkトンボ」でガス漏れをチェックするサービスガールをしていたことや、高校で担任だった高橋善五郎先生から「試験を受けてみないか」と声をかけていただきそれが縁で鳥大付属病院に入ったこと。25歳で結婚し、教会の嫁となり、病弱な姑に代わって親切で優しい舅に3人の娘を育ててもらったこと。60歳を過ぎ、退職を迎えこれからは近所の方たちとお茶をよばれたりと思っていたところ、長年、淀江町議を務められた国頭三枝子さんが体調を崩され、引退しなければという話を小耳にはさみ、「そげに人がないかや」といった私が人生を変えることになりました。
丁度、4年前の生田和子さんのことが忘れられません。治療しながら病院のベッドから私への支援を訴えてくれていました。わたしは、きっと彼女は天国から今日の事務所開きを見て応援してくれている気がします。涙もろい私は、やっぱり涙が出てしまいました。
会が終わってから、挨拶をしてくれた友人から電話がありました。こちらからお礼をいう前に、「挨拶はあれでよかった?」、私は、「ほんとによかった。十分。誰もがしり込みするのに、、、、」とお礼をいいました。彼女は友人に、「ああいう席で挨拶させていただき、誇りに思った。」といっていたと聞きました。より深い付き合いへ発展させたいと思います。